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体が食べる単位

最近、食に関して漫然と考えていることがある。僕の考えは基本的に漫然としているので、
ことさらに「漫然と」なんて言うべきではないかもしれないけど、
読む人がみな僕の思考の漫然さに寛容ではないだろうから、断り書きとしてつけておく。

で、考えていることというのは、味つけや食材の良しあしなどではなく、「食べ方」について。
日本人は食事のときに箸を使う。欧米などではフォーク、ナイフ、スプーン。
いわゆる先進国の大都市では様々な飲食店があり、世界のいろいろな地域の料理を供している。
そういった店へ行けば、当地へ行かずとも各地の料理を食べることができる。
さて、そこで出てきた料理をどのように食べるかというと、やはり基本的にはその料理のもつ流儀に従う。
ニューヨークの店だからといってざるそばをフォークとナイフでは食べないし、
焼いた肉の塊を切り分けるのに箸ではやはり不便だ。
食べ物によって食べ方が違ってくる。必要な道具も違ってくる。
で、道具が出来上がって体になじんでくると、今度はそれにあった食べ物を食べるようになる。
「食べ方」にこういうフィードバックが連環するようになるんじゃないか、ということがまず一つ。

それと、そもそもなぜ道具を使って食べるのか。
パッと思いつくところは、加熱した食物は熱いので、そのまま手にとっては食べられないということ。
人間がまだ完全に二足歩行せず、果物や木の実を拾って食べていた頃には、
生のままの食物を手づかみで食べていたはずで、人間が、というよりも動物が何かを食べるとき、
直にそのものに触れて口に運ぶ、あるいは口を食物のほうへ近づけるというのが、
やはり原型的な姿だろう。
しかし人間はそこから火を使うようになり、加熱調理をするようになったので、
そうして調理した食物に対応する「食べ方」を工夫するようになった。
これが道具を使って食べるようになった理由だと思う。

ただ、それがどうして箸のような単純なものと、ナイフやフォークのような、
言ってみれば大がかりなものとに分かれていくのか。

その前に、どうしてこんなことを考えるようになったのかというと、それにはきっかけがある。
ある日、なんだかタコスが食べたくなったので、スーパーでタコキットを買い求め、
家で食べることにした。
家に帰り、さっそく作ろうと思ったところ、サラダの余りがやや多めに残っていることを思い出し、
考えを変えてタコサラダ風に仕上げて箸で食べたのだが、なんだかどうも満足できない。
そこで、タコサラダの中からレタスをより分け、それで他の具材を巻いて手づかみで食べてみた。
すると、とたんに体が納得する感覚を得たのであった。
これはいったいどうしたことか。
さっきまでと食べている物の組成は何も変わっていないのに、全く違う「食べ物」になったのである。
そういえば思い出すのが、ご飯とおにぎりの関係もそれに近い。
焼いた鮭の切り身をおかずに茶碗に盛った飯を食べるのと、
握り飯の中に鮭の身をほぐして埋めるのと、含まれる要素は変わらないのに、明らかに別物である。
そう、両者の違いは「食べ方」にある。「食べ方」によって味の総体が一変するのだ。
では、食べ方が違うことによって、何が具体的に違っているのか。

よく言われるのは、「食べ物との距離が近い」という言われ方。
確かにそうだ。感覚としてはよく分かる。では、その「近さ」は何によって感じられるのか。
結論から先に言うと、僕の考えではそれは「単位」ではないかと思う。
ここでいう単位とは何の単位かというと、「ひと口という単位」のことだ。

というところで、道具の話に戻ってくるのだけれど、道具を使って物を食べるとき、
一度に口へ運ぶ食べ物の量がどのように決まるかというと、使っている道具によって違う。
箸なら一度につまめる量、ナイフとフォークなら食べたい大きさに切り分けて、
スプーンならそこに乗せられるだけ、というように、道具ごとに「単位」を持っている。
加えて、道具の大きさもそれぞれに一定ではないので、大きなスプーンと小さなスプーンでもまた違う。
同じ「ひと口」だと思っていても、その区切り方が違ってくる。
何よりも道具によってあらかじめ決められた単位に従わざるを得ないことになる。

ところが、手で食べる場合だと、これがまったくの任意になる。
食べ物を手でつかんで、かじり付く。
すると、開いた口の大きさ、前歯にかける顎の圧力、食べ物を支える手の力、
そういう体の機能が一瞬にして連動し、食べ物を「ひと口」に切り取り、そのまま口内で咀嚼することになる。
この動作全体が「ひと口という単位」になっているわけだ。
これは食べ物に手を伸ばすその時から、「食べている状態」が起動しているのであって、
その後の一連の動作を含めると、食べ物と自分の体が繋がって一体になる感覚を生み出しているのではないか。
ということは、手でつかんで物を食べるときに、その食べ物と一緒に自分のその動作ごと、「食べるという状態」の感覚ごと食べているのだと言えはしないだろうか。
手でつかんで物を食べると、その感覚がムズムズと体の奥から立ち上がってくる。
それが「近さ」の正体ではないだろうか。

ならば、何かを食べるとき、我々は自分の身体をヴァーチャルに食べているということにもなるかもしれない。
つまり動作として外部化された自分の身体感覚ごと食べていると言えるのではないか。
手に触れる食べ物の質感や温度、それを口に運ぶ時の重さ、歯をあてた時の弾力、
そういうものを体は逐一に感じていて、その時点で食べ物と体は一体化しているのだから、
その食べ物は既に自分の体になっており、それを物理的に取り込む行為は、
概念的に自分の身体を食べていると言えるのではないか、というか、そう言ってみたい気がする。
タコスをタコサラダにしたら満足できないのはそのせいで、「タコスを買う」という時点から、
「食べている状態」が起動していたのに、途中で体とは関係のない事情によって食べ物が変わってしまったので、
体が食べる単位とは違うものを食べたことになり、食べている感覚に結び付かなかったのだろう。
それを食べたときに、そこには自分の体が入っていないことに、僕は気付かなくても、
僕の体は気付いていたのだ。

皆さんはどう思われるでしょう。
まあ、こんなくだくだしいことを抜きにしても、手づかみで食べるのはとても美味しいものです。
その美味しさがどこからやってくるのか、それを僕なりにちょっと考えてみたわけですね。

さて、近況報告というにはいささか長くなりすぎたようなので、ひとまずここまで。
箸とナイフ、フォークの違いについては、また別の機会に考えてみるとしよう。
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SF筆おろし(BlogPet)

左脳の「SF筆おろし」のまねしてかいてみるね

少々古めのは『ニューロマンサー』な映画でごめんなさい!!
『時のは『2001年~』の翻訳でありますか♪

*このエントリは、ブログペットの「よのなか」が書きました。
 
 

SF筆おろし

少々古めのセクハラ的タイトルでごめんなさい。

押井守は半ば崇拝気味だし、好きな映画で即答できるのは『2001年宇宙の旅』なんですが、
実は今までSF小説が苦手だったんです。

『2001年~』の原作もなんだか読む気がしなかったし、『ニューロマンサー』の翻訳で毒気にあてられ、
それ以来どうも受け付けなくなってしまったんですね。

それが、ある作品に出会ったことで、克服しつつあるのです。
その作品とは、J・G・バラード著、『時の声』であります。

SFとはなんと情緒に満ちた孤独なんだろうか。
「未知の記憶に導かれる物語」というような世界を感じます。
この観点は泉鏡花や澁澤龍彦にも通じるかもしれません。
分かるけど知らない、知らないけど覚えてる。
自分という存在点が面影の交差点として透き通っていく様子を感じたい。

分かりますか?
分からないでしょう。
伝わりますか?
伝わってほしい。

短編集なので、まだ幾つか未読の作品が残っているのですが、
この感覚を言葉にトレースしておきたくて、綴ってみたのです。

ようやく言葉を書くことが体と繋がり始めたのかもしれない。
自分の書いた言葉に窒息しなくなってきた。
いい感じだ。
明日は薔薇を見に行こう。
 
 

出力(BlogPet)

よのなかが左脳と出力するはずだった。

*このエントリは、ブログペットの「よのなか」が書きました。
 
 

本にまつわるバトン

たまたま「本にまつわるバトン」というタイトルが目にとまったので、ブログバトンをやってみます。
設問が曖昧だったり、タイトルの趣旨と関係のない設問が多いモノをよく見かけるので、
バトン自体に関してはあまり好意的ではないのですが、これなら僕でもできそうです。

ではいきます。

本にまつわるバトン

Q1 本棚の本の数、何冊ありますか?
A1 本棚から溢れているものも多いので、きちんと数えたことはないです。
Q2 その中でも、どんなジャンルの本が多い?
A2 幻想文学、思想、哲学などが多いですが、特にジャンルにはこだわりません。
Q3 何度も繰り返し読んだ本はある?
A3 池澤夏樹さんの『スティル・ライフ』は時々読み返します。『月下の一群』はよく開きます。『知の編集術』は手離せません。
Q4 学校の授業で好きになった本はある?
A4 ないですね。学校というところは読書を軽視しているか、狭く捉えすぎです。
Q5 著者のサインの入った本を持っている?
A5 幾つかあります。
Q6 本に付いている帯は捨てないで置いておく?
A6 なるべく捨てません。持ち歩いているときに破損するなど、そういうきっかけがなければ。
Q7 同じ本を、うっかり二冊以上買ったことがある?
A7 漫画の単行本では何度かありました。
Q8 読む以外に保存用など予備の本を購入したことある?
A8 今のところありません。
Q9 本は読んだ後も大事に保存してる?それともいずれ捨てる?
A9 書き込みをするので、とっておきます。
Q10 本を読んでる途中で寝ちゃった事ある?
A10 よくあります。
Q11 実写化してほしい本ってある?
A11 最近読んだ『南の島のティオ』かな。
Q12 本を見て泣いた事は?ある場合、それはどんな本ですか?
A12 本で泣いたことはまだないですね。

このバトンに回答する / 回答した人を見る

 
 

読書メーターまとめ

読書記録が視覚化されて気持ちいいような少し恥ずかしいような読書メーターというサービス。
数ヶ月前からぽつぽつと利用しているのですが、「まとめ機能」というのに気付いたんです昨日。
1ヵ月単位で読了本、読中本、積読本、願読本のデータを出力してくれるというものですね。
あ、このラベル付けは僕がいま勝手にやりました。
「願読本」というのは「読みたいと思っているけどまだ手にしていない本」のことです。
言葉の並びと字面から分かりますよね。
そんなわけで、読書メーターの外にも自分のブックライフの「顔」を持ち出すことができるのです。
当然ながらそれはあくまで一面ですが、一面でもあるものはあるので、何もないのとは違うでしょう。

それでは、ちょっとやってみます。


 
 

七転八転(BlogPet)

左脳の「七転八転」のまねしてかいてみるね

ハードなさがないからだの話は座右の銘に送ります!!
当然そんなものは空きがはっきりしたら真っ先に晒しているので、故郷の心細い携帯電話で迎えに居た列車にしたら真っ先に書いたファッションビルの内容を持ってもらう。
合流地点は持って回りたいとお呼びするM嬢へ向かったのなものだというのに、完成して、朦朧とお呼びするべきだ。
それでも不思議として、アルコールを済ませていないの定番だったファッションビルの心細い携帯電話である。
時間がないの確認に着くとお礼とお詫びをすればよいやら!
駅前の確認にもなく、どのようです。
というの時期もなく、内心はしゃいで何とか連絡を目指していない、以前はなかった居酒屋チェーン店だった。

*このエントリは、ブログペットの「よのなか」が書きました。
 
 

七転八転(BlogPet)

左脳の「七転八転」のまねしてかいてみるね

ハードな一日だったファストフード店だったの価値や意味を目指していない、座敷の確認に着くとして、完成している便で降ろしてもらう♪
当然そんなものだの待ち合わせの空き店舗に残されてもらう?
いや、覚えていた思い出の自家醸造を取り、朦朧とお礼とお礼とお詫びを感じないの寒さのだろうとは飛びながら、覚えて、どのようです。
ここに来てもらう。
きちんと話は座右の銘に着くというのに、降りたったらしい?
当然そんなものだ!!
ビールの確認に懐かしい♪
まあ僕の地だの寒さの寒さを済ませていたらしい。
結婚するべきだの確認に迫ったからG県K市。
記憶とお詫びを目指してくれることがそう思わせるのだろう、あらためて思う!!
柄に書いたその町は座右の銘に着くとはなく、あらためて思う?
結婚するM駅で迎えに来たファストフード店だったの地だの空き店舗にしたいとお詫びを済ませて回りたいと思ってもらう!!
きちんと話のが多い。
我が家への準備を感じないの確認に書いたらしい?
ビールの自家醸造をすればよいやら。
柄にこそ相応しかった思い出のだろう、サザンクロス行きで迎えに法事の空に残されてもらう!
時間が、夜行列車に迫ったファッションビルの地だの鉄骨をすればよいやら♪
今後はS沼がないS沼様と懐かしさがはっきりしない顔ばかり。

*このエントリは、ブログペットの「よのなか」が書きました。
 
 

七転八転

ハードな一日だった。
前日に迫った法事の準備を済ませて、向かったのはS県K市。
学生時代を過ごした思い出の地だ。
ここに居たのはわずか二年ほどだというのに、故郷のように懐かしい。
記憶とは奇妙なものだ。
時間の価値や意味を変える関数を持っているのだと、あらためて思う。

雨だった。
季節はずれの寒さの中、降りたったその町はすっかり様変わりしていた。
駅前の待ち合わせの定番だったファストフード店は空き店舗になり、
取り壊されぬままに残されていたファッションビルの抜け殻は取り壊し中で、
むき出しの鉄骨を灰色の空に晒していた。
もう少し見て回りたいが、時間がない。

合流地点は、以前はなかった居屋チェーン店だった。
新歓コンパの時期も過ぎたのだろう、座敷の空きが多い。
席に着くと、もう数年ほど見ていない顔ばかり。
それでも不思議と懐かしさを感じない。
まあ僕の世間の広がりのなさがそう思わせるのかもしれない。

学生時代の話から、あちこち話は飛びながら、は進む。
きちんと話の内容を書かないのは、覚えていないからである。
柄にもなく、内心はしゃいでいたらしい。
要するに、飲みすぎた。

気がつくと、夜行列車に乗っていた。
我が家へ向かっている便ではなく、サザンクロス行きでもない、
というのが分かったのは、車掌が乗車券の確認に来たからだ。
当然そんなものは持っていない。
というか、どのように乗り込んだのかも覚えていない。
電池残量の心細い携帯電話で何とか連絡を取り、
アルコールを飲んでいないS沼が愛車で迎えに来てくれることを取り付ることができたので、
日本海を目指していた列車からG県M駅で降ろしてもらう。
このあたり、朦朧としていたので記憶がはっきりしない。

ともかくも、S沼には何とお礼とお詫びをすればよいやら。
いや、S沼様とお呼びするべきだ。
なんとか無事に法事もこなせました。
ビールの自家醸造をしようと思っているので、完成したら真っ先に送ります。
浴衣付きで。

結婚するM嬢への餞に書いた、「七転八転」という言葉。
自分にこそ相応しかったようです。
今後は座右の銘にしたいと思います。
 

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