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内なる掌

今年は訃報が多い。
正しく言えば、僕のアンテナに直撃する訃報が多い。
いや、「あのこと」がアンテナのそちらへの指向性を強化しているのかもしれない。
とにかく、物故の話題が目立つ。

振り返ってみれば、ほぼ毎月のペースで個人的に思い入れのある有名人が亡くなっている。
当然のことながら、そういった知らせが耳目に接すれば、
人の心はへこみ、めげるもので、僕も例外ではなく、
その度にへこんだりめげたりする。
にんげんだもの。

しかしながら、人間のいいところは、快復しようとする機能があるところなのだ。
「だもの」なんて言って自分の達観してる感をひけらかし、
持って回った手前味噌な人間的器の大きさ自慢などするまでもない。

少しずつではあるものの、確実に心の握力を快復し、
胸の奥へ滝のように流れ落ちていく哀しみを、
その内なる掌で受け止めようとする意思を持っている。

時にはその濁流の勢いに押され、その身を流されそうになることもあるだろう。
だが時には、澱みの中で光る砂金の如き何かが、
指の端に残ることもあるかもしれない。

だからといってそれを最初から期待するのはよくない。

赤ん坊が空を掴もうとするように、
掌を握ったり開いたりしているのを見たことはないだろうか。
それを心の中でやり直すのだ。

要求せず、絶望せず、あるがままの日々を掴む。
そこに何が残り、そこを何がすり抜けていくのか。
内なる掌の力の加減次第で、形も意味も変わってくるのだろう。

自分にとって一番相応しい「手加減」を探っていくとしよう。
時々、じっと手を見たりしながら。

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