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巡書流読

10月31日。
図書館のリサイクルフェアに行ってきた。

図書館で必要でなくなった、本や雑誌、寄贈本などを市民のみなさまへ無料でお譲りします。
約2万冊以上の中に、探していた本や雑誌が見つかるかもしれません。
多くの本との出合いを楽しみに、お申し込みください。


とのことだったので、期待に胸を膨らませていたら乳首に毛が生えてきたので、
台風が来る前に抜いておいた。
台風で乳首の毛が飛ばされたら大変だ。
乳首の毛に当たって大怪我をする人が続出して阿鼻叫喚の大惨事となり、
僕はその責めを負って打ち首に処せられてしまうからね。

クレバーに打ち首のリスクをヘッジして図書館に着くと、思いのほか参加者が多い。
高齢者と主婦層が多いのは、平日の昼間という時間帯から考えれば自然なのだろう。
この時点で嫌な予感がしていた。
正確に言うと、考えないようにしていた「良くない可能性」が現実味を帯びてきていたのだ。

いざ、会場に足を踏み入れると、その予感がじわじわと形を成してくる。
会場、といっても、図書館のエントランスの中央と長机を数台並べ、
壁際にもぐるりと同様の机を配し、その上に本が詰められたダンボールがずらり並んでいて、
足下にも同じくダンボールが並べてある、という空間。

動線も視線誘導も当然のように無視され場内をとりあえずひと回り。
深呼吸でため息をかき消す。
予感、的中。

まず、辞書、辞典、図鑑、年譜の類が全くない。
ないものは仕方ないので、すぐに切り替えて数学関連に周波数を合わせるも感知せず。
ならばと最近気になっているモロッコ界隈の旅行記や民俗ものを念頭において探索するも収穫なし。

もう半ば諦めて、散策モード、植物園を順路に従わずにうろつく様な心持ちで、
タイトルと著者名を手掛かりに目次読書をひたすら繰り返すしかない。

最終的な成果は以下の通り。


・『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』 V.E.フランクル
・『ジャック・ロンドン放浪記』 ジャック・ロンドン  川本三郎 訳
・『ク・リトル・リトル・神話集』 H.P.ラヴクラフト他  荒俣宏 編
・『沖へ向かって泳ぐ 池澤夏樹 ロング・インタヴュー』 新井敏記
・『南方熊楠、独白 熊楠自身の語る年代記』 中瀬喜陽
・『歴史小説選集 鎌倉争乱』 安川秋一郎
・『電脳筒井線 朝のガスパール・セッション1~3』 筒井康隆
・『大博物学者ビュフォン』 ジャック・ロジェ  ベカエール直美 訳 
・『エズラ・パウンド詩集』 エズラ・パウンド  新倉俊一 編・訳
・『コクトー詩画集 ぼくの天使』 ジャン・コクトー  高橋洋一 編・訳
・『夷斎俚言』 石川淳
・『怪談』 ラフカディオ・ハーン 
・『偽書百選』 垣芝折多
・『希望としてのクレオール』 柴田翔



『偽書百選』は、存在しない本をでっち上げてその書評を百冊ぶん書く、というふざけたもの。
『夷斎俚言』は、昭和27年初版本。
『怪談』は、ハーンが英文で書いた時に自身でつけた註を、わざわざ和訳して入れてある。


執念のなせる業か、リストに出したようなものが見つかったお陰で、
なかなか実りは多く、収穫自体について満足して帰途に着くことが出来た。

が、イベント参加の手応えとしては手痛い敗北。
はっきり言って大惨敗に近い有様だった。

というのも、僕が「選ばなかったもの」の顔ぶれが、
もう目を覆いたくなるような酷いものだったから。

少女向けの恋愛小説や中高生向けのライトノベルなんかは文庫でどっさり。
ビジネス書やノウハウ本、自己啓発の類も多かった。
パソコンの解説書や、資格関係の参考書もひしめいていた。

『偽書百選』とは逆に、存在していても誰も書評なんぞ書く気の起きないような本が山積みなのだ。
無論そういう本が存在すること自体は不自然でもなんでもないのだけど、
なぜそれが図書館に、しかもこんなに大量にあるのか、という事実に戦慄を覚える。
これらが(全てではないにせよ)市の税収で購入されたのかと思うと気が遠くなった。

こういう体験をする度に「環境破壊」を身近に感じて背筋が凍る。
脳の根が枯れる。干からびる。
そんなに僕を僕らをいじめないでくれ。

地方と中央の差を思い知らされてしまうのもこんな時だ。
池袋の図書館で同様の催しがあった時に、
知人が曼荼羅の図版入りの仏教事典を入手したので、
僕も見せてもらったが、立派なものだった。
そういうものを期待していただけに、落胆は大きかったというの偽らざる本音。


結局のところ、出合いに来たはずなのに、迷子同士がお互いを探しあって、
お互いに擦れ違い続けるような結果になってしまった。
おそらくこれは書物の呪いなのだろう。
以前も書いたかもしれないが、書物は一箇所に集まると一種の魔性を生じると僕は思っている。
ある空間における書物の占める物質的な割合が高まると、
得体の知れない磁場のようなものが生まれるような気がしている。
なぜかは分からないが、そう感じる。

今回の成果として入手した本はそういう磁場の中で巡り合ったものだ。
異界と化したその空間で擦れ違いのさなかに僅かに契りを交わし、
引き寄せあい、そして手元にあるという関係なわけだ。

まだまだ行く末も見えず行く先も定まらず、
多くの書、多くの文を迷い彷徨い経巡りて、
いつしか辿り着く岸辺は終着の彼岸となる。
それまでの一冊一頁一行一言一句が全て旅の道程であり、
そこに巡礼の路が生まれ、遍路する時が流れていくのだ。

そこでは人と本が同じ一つの個となって擦れ違い、巡り合いながら、
一つの大河をかたちづくって、また分かち流れていくのだ。

僕の感じる磁場や魔性は、そんな支流の一つの岸辺へと続く小径の、
入り口の目印なのかもしれない。
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