スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 
 

塀の中の懲りない我々

前回のエントリから一ヶ月が過ぎようとしている。
「もう一ヶ月」という思いと「ようやく一ヶ月」という思い。
どちらとも判断がつきかねている。
一日はあっという間に過ぎ、一週間は果てしなく感じる、
濃密に圧縮された情報の波に翻弄される日々の、最初の一ヶ月。
我ながら驚くのだが、この間に摂取したアルコールは、缶ビール一本のみ。
そのかわり、粉末インスタントコーヒーの瓶が三本、空になった。

いま取り組んでいることは非常に面白いし、やりがいもある。
そして手強い。難しい。だからこそ楽しい。
しかしそれを「楽しむ」余裕など、ない。

僕は以前からこの「楽しむ」という言葉の使われ方に違和感を感じていた。
たぶんプロのスポーツ選手などが、自己暗示的な意味も込めてマスコミ向けに発言し、
それが広まったものだろう。

自分の心の中から挑戦意欲が湧いてくるときの、あの素晴らしい高揚感。
きっとあの感じのことを「楽しい」と言っているのだろう。
そして自分の精神状態をそのように導くこと。
そのことを「楽しむ」という感覚的な一語に集約しようとしたのだと思う。
この一ヶ月を経験した今では、その感覚が少しは分かるようになったようだ。

僕が感じていた違和感は、この「楽しむ」という一語だけが一人歩きしていることだった。
「その時その人がその言葉を発した」という状況までを含んだ文脈的な意味が、
なぜか、いつの間にか知らないうちにバッサリと削ぎ落とされてしまう。
その上で、単純なフレーズだけがあたかも共有されているかのように扱われる。
それがなんとも気持ちの悪い感触を、僕の「耳以内」や「眼以内」に擦りつけてくる。
ということは、感覚的なほぼ全身が気持ち悪いということだ。

「楽しむ」にもいろいろある。
犬や猫を撫でている時、テレビゲームをしている時、昔の日記を読み返している時、
酒を飲んで阿呆な話をしている時、買い物をしている時、部屋の模様替えをしている時。
こういう類のものが、我々のような一般人に共通する「楽しさ」だろう。

果たしてそんなことをスポーツ選手が自ら進んでわざわざ言葉にするだろうか。
それは考えにくい。
ということは、誰かの質問がその答えを導いたという推論が有力になる。

しかし、犯人探しをするつもりはない。
僕はそういうことに意味も価値も感じないし、楽しみも見出せない。
「誰が悪いのか」なんていう瑣末なことよりも「何がおかしいのか」について考える方が、
よっぽど「楽しい」と感じる。

さて、何がおかしいのか。
質問がおかしいのだろうか。
いや、質問の意図や内容がなんであれ、答えることはできる。
では答えがおかしいのだろうか。
試験問題ではあるまいし、それはないだろう。
相手の答えを理解できていれば、という条件付きだけど。

問いも答えも問題ないとすると、何がおかしいのだろう。
おかしいと思っている僕の頭がおかしい?
そうかもしれない。
しかし、おかしいかもしれない頭の持ち主は、もう一人いるはずだ。
どうやら原因はこの辺にあるとみてよさそうだ。


なんだか結局、楽しくない犯人探しをする嵌めになってしまった。
とはいえ、容疑者は絞られている。
余談だが、この「容疑者」という言い方も、もともとは「彼ら」の業界用語らしい。
警察などでは「被疑者」という言い方が正式なんだそうだ。

では容疑者、被疑者、どちらでも構わないのだが、混乱の元凶を起こしているのは何者か。

プロを相手に質問し、その声を大勢の人に伝える力を持つ立場なのだから、
その誰かとは我々のような一般人ではないことは確かだろう。
もとより本意ではない捜査なので、これ以上は限定しない。

誰かのせいにしてしまうと、それ以上の思考が働かなくなる危険がある。
それに何よりも、こういう問題を他人事としてお気楽に考えていては、
僕の貧しい頭脳がますます貧弱になってしまう。

話を戻して、そこにはどのような過誤があったのか。

彼らがやっていることの流れはこうだ。
質問し、答えを聞き、それを他者に伝える。
このどこかがおかしくなっているはずだ。

まず質問する。これは問題なかった。
答えを聞く。これは問題ないように見える。
他者に伝える。これはどうだろう。

少なくとも僕は混乱していた。
だが幸いにしてその原因をある程度は推し量ることができた。
そして拙いながらもこうしてなんとか文章にすることができている。
読みづらい点はあると思うけど、文意のブレ幅は以前より改善されているはずだ。
それは字数制限がなく、ぶれてきたら補足して修正できる、という条件に恵まれていることもある。
しかし何よりも「伝えること」について考える機会が増えたことが大きい。

そして、僕がここまで書いてきてずっと気をつけてきたのは、
「自分は何を伝えようとしているか」ということだった。
僕がある違和感を感じていること。
それはあるひとつの言葉についてだということ。
そして、原因はその言葉の伝え方にあるのではないか、
というところまで話を進めてきた。

じゃあ「伝える」ってなんだろうか。それも言葉で。
ある意図をもって、誰かに向けて言葉を書いたり声に出したりすることだ。
その時に気をつけてることってなんだろう。
言葉の意味を自分の意図に反した「受け取り方」をされないように、
使う言葉を選び、配置することだ。

ん?ちょっと待て。受け取り方だって?
そんな話は一度も出てきていないはずだ、という指摘があるかもしれない。
そう、その通り。
僕は一度もこの文章の中で「受け取り手」について触れなかった。
しかし、この文章を読んでいるあなたは今、まさに「受け取り手」になっているはずだ。
ひょっとして、そのことを僕が説明するまで気がつかなかっただろうか。
もしそうだとしたら、そのことこそが僕がいちばん伝えたかったことなのだ。

「楽しむ」の例に話を戻すと、これは一言で言えば、言葉に甘えているのだ。
「楽しむ」という誰もが想像を働かせやすい言葉に頼りすぎている。
そしてそれは、伝える側の怠慢さ(あるいは狡猾さ)は当然のことではあるものの、
受け取る側の不注意によってそれがさらに増幅され、手に負えない事態に陥る危険がある、
または既にそうなっているということだ。

犯人はこの中にいる!
それは我々だ!!
ギルティ!!!

我々はたった一語からでも無意識に色々と連想を働かせて、
そこに書かれていないイメージをいつの間にか抱いてしまいやすい。
そしてそのイメージの半分以上は自分が作り出している、という事に気がつかないか、
すぐに忘れてしまい、少しずつ自分の鈍感さに慣れてしまう。
恐ろしいことです。忌まわしいことです。

これを逆用すれば、我々をマジックミラーの監獄に囲い込むことも可能だろう。
いや、それも既に始まっていると思ったほうがいいのかもしれない。

スポンサーサイト
 
 

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://nightfly.blog18.fc2.com/tb.php/182-6108bc59

 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。