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祝祭の幕開け

世界最大の大衆娯楽スポーツイベントがついに始まりましたね。
僕自身はサッカー少年でもなかったし、
「キャプテン翼」は能力戦闘漫画だと思っているので、
ピッチ上のリアリティについては全くと言っていいほど感じたことがない。
日頃CATVをザッピングしている時も、欧州のサッカー中継よりも、
ディスカバリーチャンネルのほうが楽しめる。
しかし、そんな僕さえも惹きつける「何か」がW杯にはあるのだろう。

「ごちゃごちゃ言わんと誰が一番強いか決めたらええんや」
という真剣勝負が発する熱。

「国家」という枠組みが限りなくポジティブに意識される可能性。

他にもあるのかもしれないが、書いていて「これだ」と思うものに気が付いた。



それは「圧倒的な規模」というもの。
圧倒的な規模の前では、人間の意識の中にある境界線が歪む。
この精神的な越境は、あらゆる祝祭において人間が求めてきたものだ。

古代においては神と対話する霊的な儀式として。
中世においては神に近づく宗教的な作法として。
近代においては神を越える新たな技術として。
現代においては神を欺く巧妙な演出として。


念のため
ここで言う神とは、特定の宗教が定めるところのいずれかではなく、
いわゆる無意識の事だと思ってください。
ちなみに僕は無心論者ですが、学問としての宗教は尊重します。




人間はそのために様々な物や形式を用いてきた。
音楽や舞踊、彫刻や建築、などの芸術はそのために「必要なモノ」だったし、
その時代の欲する目的の為に特化し続けてきた。

意識的(だと仮定される)日常から逸脱し、別次元から自らの存在を俯瞰し、
「神」を疑似体験するための装置としての祝祭。
それを地球規模で実現する為に、宗教やイデオロギーにおける対立をやり過ごし、
なんとか対等の立場で向き合える場が格闘競技以外のスポーツであり、
中でも現時点で最も適しているのがサッカーなのだろう。
その最大公約数的な性質が、現代の祝祭における定型として用いられているのだ。


そして過酷な予選を勝ち抜いてW杯に出場する選手は、
我々がその熱狂によって古代の霊的な儀式を模倣し、
神との和解の機会を求める為にその祝祭に供せられる生贄なのではないだろうか。

なればこそ我々は、自分でも理不尽とさえ思えるほどの要請を、
選手たちに突きつけるのかもしれない。
つまり我々に変わって試練を背負う象徴的な存在として。


W杯とはサッカーという舞台で地球が踊る祝祭なのかもしれない。
人々はそこに何を求めるのか。
きっと僕はそれが見たいのだろう。


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