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聖なる孤独

真夏の空は、夜中でも闇が淡い。
薄く延ばした暗さの中に、少し欠けた月が出ていた。

それを見て、僕はなんだか散歩がしたくなった。

帽子を被り、財布と携帯電話だけを持って家を出た。
靴を履きながら愛犬の頭を撫でたが、彼は熟睡中で微動だにしない。
僕は公園へ向かって歩き出した。

日曜日の夜は静かだ。
車の音も少なく、窓から漏れる明かりもあまりない。


誰にでも、誰にも邪魔されたくない時間があるものだ。
あらゆる理解や評価から解放された、世界から浮遊した時間。
必要な量もタイミングも人によって様々だろうけど。

聖なる孤独。
猛烈な徘徊。


公園をうろつく。


自分の足が地面を蹴っているのか、地面が僕の足を弾いているのか、
そのどちらでもないのか、それとも両方なのか。

きっと僕の足の裏で地球が跳ねているんだろう。
そう考えると、もうその関係性が気にならなくなった。


川に出た。

人の手によって組まれた石組みの中を、ポンプによって水が流される、
名前のない、公園の中を循環し続ける川。
それでも僕はこれを川だと思ったし川と呼ぶ。

川べりには大きく切り出された石がいくつか置いてある。
腰掛けて休むにはちょうどいい感じだ。

並んでいる石の中からちょうどいい高さの物を選び、ちょこんと飛び乗った次の瞬間、
僕は川の中で四つん這いになっていた。

どうも水平だと思って腰掛けた面が、意外と傾斜していたらしく、
臀部が岩に接地したと同時に、ハリウッド・スタープレスの要領で、
前方に勢いよく飛び出してしまったらしい。

そして、川というのは現象のことで、名前というのは現象に与えられるものなんだ、
と考えていた。
現象とは組み合わせであって、名付ける事によって存在が意識されるのだなあ。
そして存在の継続性がその名前を強化するに違いない。
その強弱の折り重なりが現実という感覚の輪郭を作るのだろう。

僕が川に落ちても川自体は川のままだけど、僕は川に落ちた僕になってしまった。
つまり僕が川から上がれば川は川という名の現象に難なく復帰するわけだが、
一方で僕は川に落ちたという現象をどこかでリセットしなければ川に落ちたままなのだ。

リセットの第一歩としてとりあえず川から上がることにした。
ざぶざぶと真夜中の岸に上がってみても、
川は相変わらず川で、川べりの石も相変わらず石だった。

しかし僕には明白な変化がある。
下半身のほぼ全てと上半身の前面がずぶ濡れなのだ。
眼鏡も飛沫で曇っているらしく、視界がぼんやりしている。

しばらくぼけっと考え事をして、眼鏡を拭き、また歩きはじめることにした。
シャツもズボンもぴったりと体に張り付いている。
体の動きを奪うほどではないが、集中力を奪うには十分なものだった。


しばらく歩くとベンチがあった。
これなら川に放り出されることもない。
そもそも近くに川は流れていない。
僕は安心して腰掛けた。

ほっとしたからだろうか。
川から上がって、歩き始めてからなんとなく感じていた違和感が、
次第に大きくなってきた。
左の膝が、さっきから少し痛むのだ。
川底に打ち付けたのだろうか。

ズボンの裾をめくって確かめてみると、やはり青アザになっている。
ずぶ濡れのまま歩いたために体が冷えているせいか、
紫がかっていて、やや黒ずんだ、静かで美しい青だった。

夕暮れに、雨に打たれるアジサイを思わせるような、深くて淡い青。
眺めているうちに、痛みよりもその色彩の玄妙さに心を奪われ、
なんだかちょっと嬉しいような心持になっていた。
そうか、これが見たくて僕は散歩に出たのだな。
よし、じゃあそろそろ帰ろうか。

と腰を上げようとしたその刹那、音もなく僕の膝の皿が開き、
アザと同じ色のアジサイの花がわらわらと生えてきた。
アジサイは見る見るうちに広がり、公園中を紫と青で染め上げてしまった。

見渡す限りのアジサイ。
すごくキレイだ。
目が眩むほどに。

僕のアジサイ。
僕はアジサイ。

どこまでもどこまでもどこまでも。
果てしないアジサイの美しい地平に僕は飛び込んだ。





その瞬間、僕はなんだか散歩がしたくなった。
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コメント

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美しい輪廻ですね。
なんだかあたしも散歩がしたくなりました。

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