ちょっと観た映画のタイトルだけを羅列してみようと思う。
というのも、7月以降DVD鑑賞のペースが上がってきて、
一応はそのつど手帳に書き留めているものの、
ひとつひとつの印象がかなり薄くなってしまっている気がするからだ。
手帳をめくりながらタイトルを拾い、そのたびに記憶を再生するのもいいが、
箇条書きにすることで、それぞれの作品が均質化されて、
自分の観てきたものを改めて少し客観的に眺めることができるのではないかと思う。
7月からのおよそ2ヶ月で観た映画は以下の通り。
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おはこんばんちは。
●曜●時、みなさん元気でやっていますか?
左脳です。
はい、ここでお便り紹介の時間です。
●塚在住の●●さん(小文字に文字で一文字目が「や行」二文字目が「あ行」)
からのお便りです、どうもありがとう!
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癖というものは、どうにもしようのないものだ。
ここでいう「癖」というのは、集中力が切れるとペンのノックをカチカチ繰り返すとか、
鼻をかんだあと思わず紙を広げて確認してしまうとか、そういうものではない。
「性分」とでもいうべきか。
大根おろしは自分でおろさないと気が済まないとか、
道端で猫に出会うと話しかけずにはいられないとか、そういう類のものだ。
その癖が出た。
それは古本市に行き当たると素通りできないというものだ。
我が家の本棚は既に許容量を越え、ざっと乗車率400%はくだらないだろう。
枕元には棚からはみ出した本が積み上がっている。
僕はこれを「未読山脈」と名付けており、時々雪崩に呑まれて遭難しそうになっている。
そこへさらに雪崩のリスクを上積みしようというわけだから、
冷静に考えればこれは正気の沙汰とは思えない。
まともに頭が働いていれば、これ以上は床の面積を削るしかないことぐらい、
すぐに思い至りそうなものだ。
それをも差し置いてということになると、もはや病理に近いような気がする。
ただでさえ読むのが遅い自分にとって、これだけのものを読むにはいつまで掛かるやら。
それすらも考慮に入れず、憑かれたように古書の物色に没頭する。
これはもう患っているのである。
ただ、こうして自覚があるだけ救いなのかもしれない。
辛うじて自身の金銭的事情に気を違えるまでには至っていないようだし。
さて、今回の収穫は以下の通り。
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『五重塔』 幸田露伴 岩波文庫ワイド版
『茶の本』 岡倉天心 岩波文庫ワイド版
『大つごもり』 樋口一葉 岩波文庫
『北原白秋詩集』 西脇順三郎 編 白鳳社
『金子みすゞ童謡集 明るい方へ』 JULA出版局
『金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと』 JULA出版局
『國文学 幻想文学』 昭和59年8月号 学燈社
『大理石』 マンディアルグ 人文書院
『肉体の悪魔』 ラディゲ 新潮文庫
『奇巌城/怪盗紳士』 ルブラン 創元社
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なんとなく明治文学な気分だったのと、また自身の日本語表現における教養の欠落を、
これ以上放置しておいてはさすがに致命的な、回復不能の弱点になるということは、
常々思っていたので、今回はいわゆる王道的な選択になった。
如何にまともに育っていないかということを晒すようでまことに恥ずかしいのだけど、
知らぬは一生の恥という言葉もある。
今のうちに取り戻さなければ「一生が恥」になってしまうかもしれないので、
汗顔の至りながらここに告白しておく。
白秋と金子みすゞを拾ったのは、歌の言葉としての日本語を考え直したかったから。
和歌や俳句などの定型詩から追いかけ直したいという思いもあるけれど、
それらは呪的な色の濃いもので、「歌という言語表現」という意味では、
やはり2008年の人間にとっては明治の詩人に学ぶところが大きいのではないかという、
これは勘や直感のようなものなのだけれど、そのフィーリングに従った。
あとは相変わらずの大魔王澁澤閣下の遺された足跡とその周辺を追いかけるような選択で、
これはまあいつも通り。
しかしこうして見ると自分の読書傾向にも、一時期の狭量な「趣味用の趣味」的な段階を過ぎ、
偏ってはいるものの、それぞれの分野の核心を求める嗅覚のようなものが、
少しは備わってきたように思う。
よしよし。
そんなことはどうせ誰も褒めてくれないので、自分で褒めておこう。
しかし、そういう感覚が磨かれていくほどに、読まねばならない本が増えていく、
というか、今まで見向きもしなかった本の価値が感じられるようになる、
なんてことが頻発して、これはもうキリがない。
もうほとんど依存症とでもいうべき状態だ。
治療法も処方箋もない。
何より患者がそれで幸せだと思っているのだから、治す必要はないのだろう。
しかし、書籍代に保険が適用されるなら大歓迎だ。
先日、久しぶりに漫画雑誌をめくっていた。
『comick乱』という、さいとうたかをの『鬼平犯科帳』を看板連載とする、
時代物に特化した、はっきり言っておっさんしか読まないようなものだ。
実は僕が『鬼平』を知ったのはこの雑誌が最初だった。
以後コミックスを少しずつ、中古が主ではあるものの追いかけるようになり、
CATVでドラマを観て、中村吉右衛門のものまねをして遊ぶようになり、
池波正太郎の原作も少しずつ読むようになった。
そんなわけで、僕にとってはある程度「信頼できる」雑誌なのだ。
その久しぶりに手にした漫画誌の中に、伝記漫画のようなものが載っていて、
それが凄く面白かった。
というか、この人のことを知らずにいたことが憚られるような思いだ。
その漫画の主人公は塙保己一。
はなわ ほきいち と読む。
この人がどんな人かは、検索すれば出てくるし、何より『comick乱』を読めば分かるので、
省くことにする。
簡単に触れておくと、子供の頃に失明し、盲人コミュニティの中でもうまく生きられず、
失意から自殺しようとした所を、近所の侍に拾われ、学問に才を発揮した。
その才能は驚異的で、盲人故に読み聞かせでの講義による学習が主体だったのだが、
なんと聞いたそばから即座にその内容を丸々暗記してしまうというものだった。
そしてその後、学問の道に邁進し、空前絶後の偉業『群書類従』を成す。
これは日本の古典や、古い文献、書簡などの散逸や消失を防ぐために、
それらをことごとく集め、すべて版木に彫って保管するという、
勇敢なる知のアーカイブ事業だった。
『群書類従』を幕府の事業として取り上げて後押しした、時の老中水野忠邦は、
「保己一は人間ではない。書物の精が人に化けたのだ」とその人物を評している。
感動した。
泣きそうになった。
まあ近頃は年のせいか涙腺もゆるゆるで、オリンピック中継を観ていても、
競技直後の選手のインタビューなどの場面では、勝手に目尻が潤むようになっているので、
自分の涙はかなりお安いものだとは思う。
それでも、おっさんを泣かすような伝記漫画が、まだあるということが、
そういう表現が可能だということが、嬉しいではないか。
少年期に漫画ばかり読んで育った、いわゆる「ジャンプ世代」が年を重ね、
こうしておっさんになり、そしておっさんなりに漫画を楽しめている。
そしてそれに足る作品を商業誌で世に出す力が、まだ漫画というメディアには残されている。
他ジャンルと比較しても、今回の芥川賞作品の退屈さに比べれば、また、
不特定多数向けの応援歌を量産する流れ作業に成り下がった歌モノ音楽産業、
(これをJ-POPと言います)の惨状を見れば、よほど希望は残されているのではないか。
そこで僕が望むのは、こういう伝記漫画を「友情・努力・勝利」的な、
週刊少年漫画誌にこそ掲載して欲しいということなのだ。
そして実現の際には、伝統あるアンケート葉書方式の対象とせず、過剰な劇化を避け、
淡々とその人物を、その業績を描いて欲しい。
数ある連載の中で、そういうものが一本ぐらいあってもいいではないか。
こう言うことは書きたくはないが、昔は「子供に見せたくない」などという、
ネガティブな形ではあるものの、一応は「旗色鮮明な物言い」というものがあって、
その是非や巧拙や善し悪しは別として、それなりのリテラシーを示していた。
対抗意見があったのだ。
それが、我々のような漫画を読んで育った「ジャンプ世代」が年を取り、
おっさんになり、(僕は違うけど)人の親となる時代になったいま、
漫画全体そのものがあまりにも無条件に受け入れられ過ぎている気がする。
性表現や暴力表現、未知なる脅威、正体を隠しながら迫ってくる圧力、
異世界、異能、あらゆる非日常を、漫画はいとも容易く誌面にぶちまける。
それだけパワフルなメディアに関わっているということに、
実は当事者が一番鈍感なのではないか。
もちろんこの「当事者」というのは、漫画の作家ではなく、版元、編集者、
そして「ベテランの」読者たちのことだ。
とくに版元や編集者の嗅覚が小銭の匂いしか嗅がなくなったことは犯罪的だ。
漫画読者の大多数をリテラシー不全の病理に突き落としているような気がするのだ。
少年向けまたは青年向け漫画誌が相次いで休刊したのは、ただ単に少子化だけが原因ではないだろう。
他の雑誌でいくらでも読めるような、虚構を保留するためだけの虚構とでもいうような、
つまらない世界を量産することばかりを作家に強要し、その力量は作画の速度、
流行に則した人体顔面描写と、その精度が如何に長けているかについてしか評価しない。
いや、できない。
それは、リテラシーが未熟だからなのだ。
そしてそれは「ただいま現在の読者」が「現時点でとりあえず○を付ける」という、
「アンケート葉書方式」という自浄作用ゼロの丸投げ評価体質にあると思う。
この方式は編集部として、作家に対してはもちろん、読者に対しても、
一切の責任を全く取っていないのだ。
作家は自分の表現を世に出したい。
読者は面白い作品に触れたい。
この間に立つ版元は、当然のことながら両者の間を行き来する丁稚であるべきだ。
これは身分のことを言っているのではない。
職能や作品に関する領分のことを言っているのだ。
それを、責任は一切取らず、お前ら寝る間を削って漫画描け。
そしたら一応ストックしといちゃるわ。
というような態度をこのまま続けるのならば、その版元は遅からず業界での地位を失するだろう。
そろそろ大物漫画作家同士の連帯があってもいいのではないか。
でなければ、若い作家たちが、その才能や技量に比してあまりにも不遇だと思う。
だいぶ話が逸れてしまった。
ただ、「漫画」というメディアの力を、過小評価しないで欲しい。
そして、拡大して悪用しないで欲しい。
僕はただ、漫画を漫画として読みたいという一人の読者なのだ。
そのために出来ることがあれば、こうして拙い筆ではあるものの力になりたい。
そう思っているだけなのだ。
そして、いい漫画を読めればそれでいいし、それを誰かに伝えたくなればもっといい。